ひとりおしゃべり

頭の中のおしゃべりです。

レシートをまとめて捨てた日の日記

学生じゃなくなると入学と卒業がなくなるから「期限」ていうのがなくなってしまって、いつまで続くんだろこれ、とか、いつまで耐えたら出口があるんだろこれ、とかをよく思って、頑張りの輪郭みたいなのがふやふやになって掴めなくなってしまう。

早く早く死にたくて、人生の「期限」を早く手に入れたかったころは、きちきち決められた学校生活の「期限」に追い立てられているようで本当に嫌だったけど。一気に無くなるとそれはそれで困る。程よい中間が欲しい。


レシートはたんまり溜まると日記みたいだなぁと思う。いつもどうにも財布の中にレシートがたんまり溜まってしまって、財布が閉まらなくなるととりあえず財布から部屋の床に移し、それからまたしばらく経ってからひとつひとつ見て捨てていく。クレジットカードのレシートには名前が印字されていることを最近教えてもらったんだけど、教えてもらってからも気にせずシュレッダーにもかけず捨てている。それでもひとつひとつ見るのは、まとめて放ったレシートの束にポイントカードだとか、クレジットカードだとか、割引券だとか、そういう捨てたら困るやつが挟まっていないかを確認するためだ。でもそうなら、束をささっと崩して隙間を確認したらすぐ終わることなんだけれど、いかんせん文字があったら読みたくなってしまうたちで、ひとつひとつ店と、買ったものとを確認してからゴミ箱に移す。それで大体束として取り出す時は1,2ヶ月分もあるもんだから、ああ、この日はここに行ったな、とか、友達と一緒にご飯食べた日だ、とかを思い出す。数ヶ月分の自分と出会いなおしてからゴミ箱に捨てる。これを保管しておいたらある種の日記にでもなるんじゃないかと思ったのだ。保管しないけど。

一人暮らしを始めた頃は、全部レシートを取っておいて、こまめに家計簿アプリに手打ちし、ひと月が終われば手持ちの金と付き合わせて齟齬がないかを確認するというまめな事をしていた。手持ちが少ない状態で暮らし始めたので、収入に対してどの程度の消費で暮らしてゆけるのか分からず、目安を確認したかったのだ。結局、細かい確認に疲れてしまったことと、強い制限をかけずとも暮らしていけそうだということが分かり、その作業は半年ほどで終わりを迎えた。その頃はひと月毎のレシートを日付順にしてホチキスで留めていたので、今よりも余程日記に近かったと思う。

日記というものをあまり書いたことがない。夏休みの宿題で課せられた一行日記くらいだろうか。それも夏休み終盤にまとめて書いたので、月記だと思う。書いてみようかと頭に浮かんだことはあったけれど、「その日」を強く記憶し直す作業は体験したことが良かったことであれ悪かったことであれ、体力も時間もとられることだな、とも思ってやめた。それを費やすに値する行為だとは思えなかった。その点Twitterは便利だ。日記として残そうと意識せずとも、後から見返せば結果的に似たような記録として残っている。ツイログを利用したり、Twitter公式からダウンロードできる自分のツイートログを読み返して過去の自分をなぞることはあった。じゃあTwitterを自分の過去の記録として大事にしているかといえばそうでもなくて、おおよそ10年ほど(10年……)Twitterと共に生きたが大体数年おきにアカウントを消したりツイート全消しサービスを使ったりしてログは全て消している。なんだかもう唐突に自分の記録がつらつらとインターネットに場所をとっていることが耐えられなくなったり、あらゆることに耐えきれなくて断捨離欲が急激に高まったりするとそういうことが起きる。これは学生のころからそういうところがあって、ある程度まとまった自分の過去の記録をごそっと捨ててしまうととてもスッとして落ち着いた。トカゲの尻尾切りみたいなものだ。一人暮らしを始めた時はそういう「思い出の品」類は最初の家に置いてきてしまい、家の中は切れない尻尾のみしかない状態が長らく続き、捨てられる記録といったらTwitterくらいなもので、割とログを消す頻度は上がったと思う。そうでもないかもしれない。最近はまた家の中に捨てられる物も増え始めたし、こないだ捨てた。また捨てられるものが出来たことに少し喜びもあった。捨てたいのに捨てるものがないのはとてもストレスだった。

過去と地続きの自分というものを握っていられないんだと思う。過去という概念的なものを思うと、足元が不安定で、泣き喚きながら何かに弁明したい気持ちになる。もうなんだかよく思い出せないけど、少なくとも5,6年ほど「お前は死ななければならない」ということを自分に念じ続けて生きていたのでその後遺症なのかもしれない。嫌な過去ばかり記憶しているから(自分の特に人間関係における立ち回れなさも大いに含む)、何年も夢に見ることも、引き続きうまく立ち回れない自分にも耐えられることはなかった。ごそっと物理的な記録を切り離すことで「終わったこと」として処理できた気になれた。

過去の自分を憎んでいることは無くて、慈しみをもって、捨てている。自分以外のものは憎しみを持って捨てたりもしているが。

でも写真データは消したりしていないな。Googleフォトを利用して無限にデータをバックアップし、まれに見返すなどをしているけれど、自分が撮った写真データは消したい!と思ったことがない。鬱病でのたうち回っていた時期の写真は見返すに辛いところはあるけれど消したいとは思ったことはない。なぜだろう。自分が見た景色、自分の記憶に近いからだろうか。あと無料で無限にバックアップしてくれるから端末の容量を圧迫しないせい? そういえば無限バックアップ終わるそうですね。仮にGoogleが倒産して写真データが消える!となっても残したい写真を印刷しておこうとはならない気がする。

物があるのが嫌なのか? その時の思考感情を思い起こす記録が嫌なのか? 分かんないなあ。

それはそうと今誤変換で「思いお昆布」となってしまいふふっとした。

好きなのになぁ…。というところの「なぁ…」の部分

心の底かららぶ。見渡す限りのらぶ。という作品にたった1つでも出会えたなら、永遠に生きていける気がするのに。

 


ここ数日「大神」というゲームのサントラをまた聴いている。サントラって聴くとゲームやりたくなるのよね。まだ再開してないんだけどさ。

大神は兄がやっていたのでなんとなぁく知っていたけど、実際に自分でセーブデータ作って触ったのはSwitch版が最初。やり込みつつ一通りクリアして、今二週目の途中。ゲームシステムも丁度良くて、アマテラス(主人公の白いオオカミ)もかわいいし、琵琶がじゃんじゃか鳴るBGMはかっこいいし。楽しいんです。

まあただ、昔の(今も改善はされてないけども)ゲームなので…という気持ちになること多々。

「お前おとこだろう?!」みたいな。か弱いおなごを守ってこそおとこだ、みたいな。大きいことを成し得てこそのおとこだ、みたいな。あー古風な(現代にも蔓延る物だけど古クセェので古風と言い切ってやるからな)ジェンダーステレオタイプのおとこのための話だなあ、というのが全編を通してある。アマテラスの相棒のイッスンは社会(村)からの期待の重圧から逃げていたけど世界を変えるほどの才能を発揮してヒーローになる話だし、サブ主人公みたいな位置のスサノオは普段は実力無しのビビリだけどいざという時は真の力を発揮してか弱いおとめを守る話だ。おとこが(ホモソーシャルのなかで)救われる話でよく見る感じ。まあそれはいいよ、神話の時代の話だから。まだ。わかるわかる。

大神には女性キャラももちろん多く出るけど、美しいとされる女たち(それこそ神様たちでも)はとにかく胸がぼよんぼよん跳ねる。違う生き物付いてるか??ってくらいぼよんぼよんするエフェクトがかかる。きもちわる。サクヤという神様(コノハナサクヤ姫)は最初の頃は力が弱まっていて、だんだん力を取り戻していくんだけども、元の姿になるならさぞ布ましましの絢爛豪華な着物になるのだろうとわくわくしてたらまさかのビキニタイプになった。うそだろ。なんでそこだけ現代の価値観持ってきたの。肌を自分の意思で見せるようなキャラでもないのに無駄に布をひん剥かれるのはどうしてなのか。古のゲームめ。たとえ昨日発売されたとしてもそんな古くさくてカビの楽園みたいな思想が横行してるゲームは総じて古のゲームだからな。

総評として、おとこ向けのゲームなんですよね。のっとふぉーみー。おとことして産まれ育ってればまだどこかしら少しはより楽しめたのかしら。私はターゲット層には入っていない、というのがプレイしながらひしひしと分かる。こういうの何回目かなぁ。

昔のゲームだから、とか。時代設定鑑みればまあ分からなくもないよね、とか。私向けじゃなかった、とか。いい加減にしてほしい。好きなものに触れながら、その好きなものが自分を削りにくることが、10や20じゃ足りないし、100でも200でもある。ずっとある。つかれた。

 


ところで先日、カジャラというコント集団の舞台に突発的に誘われて、たまたま当日券が残ってたから見てきた。小林賢太郎という人が座長で、脚本演出やってて、パフォーマーとしてもやってて、中学生高校生くらいにはとても好きな人だった。コントなのでお笑いではあるんだけど、脳みそ働かせながら観る感じの作風で。

カジャラは第一回目のツアーの時に見たきりだった。小林賢太郎はまた次にどんな面白いことをしてくれるんだろうと思ってわくわくして観に行った事を覚えてる。けど、観終わったあとどうにもスッキリしないもんにょり感が残って、声高に面白かったとは言えなかった。面白い小ネタやコントは大いに笑ったけど。第一回の時に、いわゆるスクールカースト最下層の引っ込み思案な拗らせオタの行動を傍目(客席含む)から見て笑う、という流れで進むコントがあった。笑えなかった。あなたがそれをやるのかと小林賢太郎に対して引いた気持ちで見ていた。ホモソーシャルの文脈だね。

今回見た第四回の公演も、「身内がバカやってる」のが面白い、程度のもので。脳みそすっからかんでも楽しめるやつで。私が期待してたものはなかった。これはそれこそノットフォーミーになっただけで、頭を使わずに見られる笑いにやりたい路線が変わったのかもしれない。

でもさ、最後のコントに「(俺に告白する口実に)嘘ついてたんだよあの子!」「女ってそういうとこあるよなー!」っていうやりとりがあってさ。「女ってそういうとこあるよなー!」。「女ってそういうとこあるよな」。そのセリフがずっとぐるぐる回って永遠に心の扉が閉まった音がした。

何が悲しくて安くない金払ってかつて好きだったものから発されるミソジニーを浴びねばならんのか。ホモソーシャルの中でわいわいきゃいきゃいして、女とよわいおとこを足蹴にして楽しく暮らせばいいよ。もう二度と見ない。

 


好きなものから削られたくないというだけの望みがこうも易々と砕かれ続けるのは何なのか。

こんなの数多の経験の中のたった二つだよ。

希死念慮が自己紹介たり得てしまうやつ

何のために生きるのだ人間。
という気持ち。

重度の鬱という診断が数年前におりています。
文野さんです。

 

メンクリに(勝手に)行かなくなってからほぼ半年。
またメンタルが一人ではどうにもならなくなってきたので、通院を再開しようかと思うなどしています。
薬を飲み続けて「少しマシ」の状態が長らく続くと、「飲まなくてもいけるのでは?」と思うし「薬を飲み続けないとマシになれない惨めさ」もあったりして。嫌気がさしてやめてしまった。
嫌気自体はずっとあるにはあって、先生のいる診察日と公休希望申請を取り間違えたというきっかけ(リカバリーのエネルギーが無かった)がひと押しだったけども。

 

熱中症対策に「喉が渇いたと思ってから水を飲んでも遅いのだ」という言葉は良く聞くけれど、多分私の私に対するメンタル対策もそんな感じ。
色々な事が相まって事前に悪くならないよう対策をとるなんてことが出来ない。
出来てたら今も尚こんなんなってねーわという感じでもあるが。

メンクリの予約取るのめんどくさいなぁと思いつつ。
その時に伝えることメモとしてつらつら。
それ以外の思考整理と吐き出しにもつらつら。


希死念慮についてはずっとある。生まれてから今までの半分から8割くらいの間は、ある。
明確に「20歳で死のう」と決めたのは中2の頃だったか中3の頃だったか。そのあたりから、リミットは18から35までぶれたりもしたけれど、自殺を大きな明るい希望として生きてきた。その選択肢には後光が差してた。それくらいの希望だった。
それでも希死念慮を抱かずに過ごせた期間はあって、だけど同時に恐ろしくて仕方がなくて。高校生の頃。このまま死にたいと思わなくなってしまうのではないかと思って、希死念慮を忘れ去ってしまう自分が怖くて。「お前は20歳までに死んでくれないと困る」という呪いを自分から自分へ掛け続けた。結果、戻ってきた希死念慮を握りしめて安堵する、ということを繰り返した。これがまずかったのは重々承知ではある。
そんな状態を何年も何年も重ねて、実家内と大学とサークルと自分への呪いとが相まって限界を越えに越え。首をくくるも上手くできずメンクリに駆け込んだところ重度鬱の診断をもらうんですがまあその辺はいいや。

 

「夢を持とう、夢はあるか」みたいなのに遭遇する度、私は「死ぬことだ」と思う。今でも。口には出さないけど。
楽しいと感じる時があることと死にたいことは、それはそれこれはこれで。でもそういうことではなく、未遂に終わったことで自分の中から一旦遠のいた「死ななければならない」という呪いの分が空虚で、また慣れた感覚に安心したくて手放せないだけなのかもしれない。
いずれにせよ、明日死ねるのなら死ぬだろうと思う。

 

私に関わってくれる人は可哀想だ。という気持ちがある。
メンタルが大きくやられている人と相対するのはとても削れる行為だ。気持ちも引き摺られるし、何かしらが削れる感覚があるものだ。
一緒に楽しく過ごした相手が、一緒にいる以外の時に延々と死にたがっているというのは控えめに言って好ましい気分になる筈もなく。
楽しいこと、楽しい場所、楽しい人、楽しいもの、全部なにもかも私の抑止力にはなり得ないし、自分の認識に何年もかけてなり得なくさせた。から、余計にだろうと思う。
常に可哀想だと思って接しているわけではないんだけれど、メンタルの調子がどん底の時にはよく思う。失礼かつ傲慢な考えであるとは自覚している。
自分のメンタルの波に付き合わせてしまって申し訳ないという気持ちからくるものであるのに、どこ目線なのか。

 

精神的自傷癖についてはまた今度にしよう。

先生に言うこと多いなぁ。仕方ない。

 

感情を精査すること

特に、自分が心地いい感情において。

 

私は好きなものに対して感情のままに走り爆発させ発散するようなところがある。

そんな感じで生きている。

好きだ!ラブ! モードの時は感情の精査なんてできる状態ではないんだけど、比較的落ち着いている時に、自分はそれの何を好きだと思って何を心地よく感じているんだろうと考える。

好きだという感情を深めるためもあるけど、自分が何を消費してしまっているのか明確にしないと怖いんで。

前提として、私は自分の好意を対象を消費することでもあると思っている。

消費は暴力性を伴うから。自覚した上で節度を守って消費していたい。

とは言っても、節度なんて守りきれた試しはないんですけど。

 

自分が気持ち良く感じることこそ気をつけないといけないと思う。

気持ちいいから、意図して振り返らないと気持ちいいままに振りかざして気付けないから。

こと対人関係においては特に。

振りかざすのが怖くて精査に時間かけて、その間何もできなくなって今少し困ってますが。難儀。

 

めんどくさいと思うし生きづらかろうとも思うけど、これやらないと怖くて生きてけないので。

困ったねぇ。というぼやきでした。

 

 

自分以外の誰かと一部でも生活を共にするということ

勢いでブログを作り、何個か記事を書いて以来放置したまま2年弱経ちました。そういう感じで生きています。

そして久しぶりに書きたいことがあってきました、文野です。

 

最近というか、ここ1年弱の間で考えていることがあります。

誰かと生活共にすること。または、生活を送る上で協力関係を結ぶこと。

結婚についての話か、と問われればそうだけど、そうじゃない。本当にそれしか、さらにいえば恋愛による結婚しか選択肢はないのか、という話です。

 

私はAセクシャルを自認しています。中でも、恋愛対象も性愛対象もないAロマンティックAセクシャルです。「だからそういう話を考えるのか」と思われるのも嫌なのであまり言いたくはないんですけど(Aセク自認以外でも全然考えたらいいのにと思うので)。

私には、ハナから相互恋愛による結婚(法的婚姻)の選択肢がありません。私がしたくないからです。別にそれを悲観することも、その選択肢を獲得するために何かしらの行動を起こそうとも思いません。

しかし、死ぬまで1人で生き抜きたい、誰かと生活を共にするなんてありえない、という訳でもまた、ない。生活を共にせず生きることは選択肢のひとつとしてありかなとは思いますが、まあ、確固たる選択ではない。

そんな中で、誰かと一部でも生活を共にすることを考えようとすると、現行の世の認識では「結婚」以外に何があるのか、という空気がある。「男女が基本だけど、最近はなんか同性婚とかもあるよねー」程度じゃなかろうか。なんというロールモデル、選択肢の少なさか。「それ以外を選んでる人だっているよ」っていうのは「これくらい沢山選択肢があるけど君はどれにする?」っていうのが主流にならない限り意味を成さないと思っているので今回は置いておきます。

とにかく、「恋愛」及び「結婚」が誰かと一部でも生活を共にすることの選択肢のほとんどを占めている。数択に見せかける隙もなく一択、くらいに。

私はそれをぶち壊して生きたい。し、似たようなこと考える人とじゃなきゃ暮らせないのかなって思う。

 

まず、生活レベルが合って相手に嫌悪感がなければ、恋愛によらなくても婚姻関係は結べると思うし(結ばなくてもいいし)、生活はできるし、恋愛がなきゃ困ることもないと思う。友情結婚の(友情もない結婚も)、婚姻関係のない共同生活も何がいけないのか。そして1人対1人で支え合う必要もなくて、シェアハウス的に複数だっていい。

同居も必須じゃないと思うし、近場に住んだり住まなかったりして、複数人でその時余裕のある人たちが困ってる人に手を貸すシステムでも全然構わないと思う。恋人でも、友達でも、顔見知り程度でもいい。

そして、未来永劫その関係の維持を義務付けなくてもいいし、定期契約でもいいと思う。

できる。できるんだよね。双方の、全員のその関係を維持するという合意があれば。理想論だとは思うけれど。そんなこと言ったら現行の制度だって理想論で言えば全て円滑に進むことになるからいいんだよ。

 

問題は、「法的結婚」を経ないと社会的に人間と認められない風潮が根強いせいで、それら選択肢が選ばれ辛さを極めること。「とにかく結婚しとかないと」っていう空気のせいで、それ以外の選択肢を選びたい人たちが可視化され辛いこと。選んだとしても、周囲からの理解が得られ辛いこと。

壊すには骨が折れそう。

私は「恋愛による法的婚姻」しかない選択肢欄をぶち壊したいけど、1人じゃ無理なので同じようなみんな達は気が向いた時に微細なヒビでも入れといて欲しい。というささやかな気持ち。

 

SNSだったりエッセイを出版してくださる方たちのお陰で、色んなロールモデルが私の見える範囲まで届き始めていることは、とてもありがたい。

早く沢山の選択肢の中から選ぶことが主流になればいい。人間関係を選択肢に合わせるんじゃなく、選択肢を人間関係に合わせられるように。

私は恋愛による法的婚姻を否定したいわじゃなく、それしか選択肢が用意されないことを否定したいので。

 

早く息苦しさが消えたらいいのに!ね!